感動屋 うる民

感動×感謝×感性

#85 八田 與一 氏(日本人の偉人)

日本人は知らない歴史!
台湾の教科書に載っている日本人
 ※ここ十数年は、かなり見返されてきました。
日本の偉人 八田與一
2011年に台湾という国からの200億円!!
東日本大震災の被災者を案じ、台湾の人たちが送ってくれた義捐金の額だ。9割は一般人からの寄付だった。台湾では、地震発生直後から、テレビで緊急特番を放送されました。
多くの有名人や政治家、総統までもが日本の危機的状況を訴え、支援を呼びかけ続けてくれた。
なぜ台湾の人たちは、そんな大金を日本のために送ってくれたのか?それは、日本をとても愛してくれているから。
その裏には、台湾人なら誰もが知っている物語が存在しました。
1895年、日清戦争に勝利した日本は、台湾を治めるコトになった。
日本は、国内の食糧不足を補うため、台湾の農業強化を打ち出した。
しかし、台湾一大きな嘉南平野は、作物がほとんど取れない。原因は水事情の悪さ。乾季は日照りで飲み水さえないが、雨季には洪水が絶えず起きるという有様。そこに、日本から土木技師として派遣された男たちがいた。
その方こそ八田與一氏である。
日本の偉人 八田與一氏 彼はダムを建設するため、水源や地形の調査にやって来たのだ。
台湾総督府に上申する八田氏。
「ダムに最適な場所は、ここ、烏山頭(うさんとう)地区です。大規模なダムが造れます」が、台湾総督府は難色を示す。
「こんな大きなダムは不可能だ!もう少し規模を小さくしなければ」食い下がる八田氏。「それでは水量が少なく、平野全体に水が行き渡りません」
「しかし予算がない…。」と嘆く。
「一時しのぎではダメです。農民たち全体が豊かにならなければ、造る意味がありません!」
工事費用は莫大で、台湾総督府総予算の3分の1にもなる。金額的にも規模的にもあまりにも大きすぎて、誰も本当に実現するとは思わなかった。しかし、小さいダムでは水が行き渡らず、住民の格差が生まれてしまう。
彼は自分の思いを曲げず、計画書を何度も練り直した。
3年後の1920年、粘り強い交渉の末、八田氏は、費用の半分を農民たちも担うことを条件に、ダムの建設許可を勝ち取った。
ところが、地元住民は大反対。
「なぜ我々がお金を負担しなくてはいけないんですか!」八田氏は、ダムの必要性を必死で説いた。
「ダムができれば必ず豊かになる。皆さんの子どもや孫たちの世代が、安心して暮らせるのです」「僕たちは騙されないぞ!」住民の無理解など、問題を抱えつつ、何年続くか分からないダム建設がスタートしました。
日本人・台湾人合わせて約2000人が、険しい山奥での力仕事に従事。しかし、衛生状態も悪く、労働環境はまさに最悪だった。
そこで八田氏は、環境改善のため、上司に要請。「家族と住める宿舎を作って下さい」「何を言ってるんだ。我々が必要なのは労働力。女、子供は必要ない」「しかし、家族と離れ離れでいい仕事などできるわけありません!」八田氏の要請が受け入れられ、工夫(こうふ)が家族と一緒に住めるよう、工事現場の近くに小さな町が作られた。
そこには、学校や病院などの公共施設や、映画館やテニスコートなどの娯楽場もあった。
集会所に集まってゲームをしたり、定期的にお祭りを開いたり、工夫たちはここでの生活を心から楽しむコトができた。
台湾の工夫たちとも家族のように接する八田氏。
日本の偉人 八田與一上からではなく、同じ目線で仕事をする彼の姿勢に心を打たれ、台湾の人たちも次第に心を開いていった。地元の反対も弱まり、全てが上手く行くように思われた。
そんな時、1923年、関東大震災が発生。
日本は、台湾のダム建設どころではなくなった。
八田氏は、台湾総督府からダムの建設予算の大幅カットを言い渡される。
「台湾人半分のクビを切って、何とか工事を続けてもらえんか?」この噂は台湾人工夫たちの間にも広まった。
「俺たち、そろそろクビらしいぞ」
「そうらしい。日本人が優遇されるのは仕方がな」ところが、何と八田氏が解雇したのは日本人ばかりだった。
台湾人工夫たちは驚き、なぜ自分たちを優遇して残したのか、その理由を尋ねた。
すると八田氏はこう答えた。
「当然ですよ。将来このダムを使うのは君たちなんですから」日本人は日本でも仕事ができる。台湾人はこの地でずっと生きていく。
自分たちのダムは自分たちで造って欲しい。
それは八田氏の思いだった。工夫たちは、八田氏を心から信頼するようになった。

そんなある日、とんでもない事が起きてしまう。

ダムの現場で爆発事故が発生。
死亡者50人以上、負傷者100人以上の大事故だった。
八田氏は、取るものも取り敢えず急いで遺族の家に駆けつけた。土下座し、遺族に詫びる八田氏。
「申し訳ございません!あなたのご主人を殺したのは私です!」
大切な人の命を奪ってしまった。
いくら謝っても謝りきれない。
未亡人はしかし、八田氏にこう話しかけた。
「八田さん、、頭を上げて下さい。主人は、ダムの仕事を誇りに思っていました。八田さん、どうか立派なダムを造って下さい!」
亡くなった工夫たちは、自分と同じ思いを抱いていてくれた。
家族にも語ってくれていました。
八田氏は決意を述べた。
「必ず、必ずダムを完成させてみせます!」
多くの仲間を失いつつも、残された人々は懸命に工事を続けた。
そして1930年、10年の歳月を経て、ついに東洋一の大きさ(当時)を誇る烏山頭ダムが完成。
不毛の地と言われた嘉南平野は、米・サトウキビなどが豊富に獲れる、台湾一の穀倉地帯へと生まれ変わった。台湾の人たちは、ダムを見渡す丘に、八田氏の銅像を建てた。それは、考え事をする時の姿。
日本の偉人 八田與一
八田氏の物語は、台湾の教科書に載っていて、今でも彼の命日には、毎年ここで慰霊祭が行われている。
2011年のあの震災の直ぐ、日本に送られた200億円の義捐金
それは、70年の時を経て、八田氏への思いが恩返しの形で届けられたのかもしれない。
八田氏の銅像はなぜああいうポーズになったのか?波田野毅氏曰く、「八田氏は、銅像を造ることを嫌がった。人を見下すような感じでどうも…ということで。が、台湾の方々のたってのお願いで、普段着の作業服を着て、しかも小さめに座っているという形で造られることとなった。」
八田與一氏に関しては、もちろん番組で紹介された以外にも様々なエピソードがあります。個人的には、外代樹(とよき)夫人についても取り上げてほしかった。
八田與一氏は、大東亜戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈され、この世を去りました。
3年後の1945年、戦争に敗れた日本人は、一人残らず台湾を去らなければならなくなりました。
外代樹はその年の9月1日、八田與一氏が手がけた珊瑚潭の烏山頭ダムの放水口に身を投げたのです。
そして1946年12月15日、嘉南の農民たちによって八田與一夫妻の墓が、その地に建てられたのでした。
八田與一銅像には、こんなエピソードもあります。戦争末期、銅像がダムのほとりから姿を消しました。金属として供出する為に撤去されたのですが、なぜか行方不明となりました。実は地元の方によって、近くの駅の倉庫に隠されていたことが判明します。
戦後、国民党政府が日本統治時代の痕跡を抹殺することに躍起になっていた間も隠し続け、蒋経国の時代となって、ようやく表に出されました。台湾の人たちが「国民党政府」から銅像を守っていたのです。有難いコトです。歴史を知らない日本人であってはいけませんね。」
このコメントを拝見し、涙が出ました。
日本が敗戦し、台湾から日本軍が引き上げた後に 蒋介石 率いる国民党(外省人)が台湾にやってきたわけですが、その際、国民党政府が躍起になって日本統治時代の痕跡を抹殺したのですよね。その中に 八田與一氏の像もあったんですね。
それを 台湾の方々が守ってくれた!八田與一氏の像を、日本の心を守ってくださったのです。私は、日本統治時代に台湾に大規模なダムを造った日本人がいる、ということは知っていましたが、これほどにも 台湾の方々との心のつながりがあったことは知りませんでした。こういう歴史を、いったいどれだけの日本人が知っているのでしょうか?
日本人は歴史を知らない部分も多いのではないでしょうか?こういった歴史を語っていくコトは、決して歴史を美化するコトではないのです。
真実を知り、真実を語っていくこと。それが将来の日本のためになると思います。
世界が誇る、我らが日本の先人。
台湾から学ぶ時が訪れています‼︎